ジブリの「君たちはどう生きるか」を見てきましたので思ったことを書きます。
内容は難解で「全くわからないけど、何かわかりそう。でもやっぱりわからない」と言うのが正直なところです。
ただ、「面白い」ということは間違いないです。少なくとも後1回は見にいきたいと思いますし、これから書くことはその時のためのメモみたいなものです。
僕は普段映画をあまり見ないし、ジブリ作品も金曜ロードショーで見る程度なので見当違いのこともあるかもしれませんが、そういう感想もあるんだなぁ程度に読んでいただければ幸いです。
・物語の始まり
最初に空襲警報のサイレンの音から始まります。
ジブリの作品は大きく分けて「天空の城ラピュタ」や「千と千尋の神隠し」などのファンタジー作品と「火垂るの墓」や「風立ちぬ」などのリアル系の戦争を題材にした作品の2種類があるイメージでしたが、本作は後者になるのかなと予感させられました。
視聴済みの方はご存知の通り、この予感は外れることになりますが・・・
この空襲で主人公の眞人の母が入院する病院が火事になり、お母さんも亡くなります。
眞人が病院に向かって駆けるシーンでは、逃げ惑う人々が揺らめく影のように描画されていて戦争の悲惨さが伝わってくるのが印象的でした。
・眞人と夏子の出会い
眞人は父と共に疎開をします。
そこで出会うのが父の再婚相手であり、母の妹でもある夏子です。
元妻の妹と再婚するって・・・、と思いましたが当時ではそこまでおかしなことではないのでしょうか?
疎開先の駅から眞人は夏子と一緒に夏子が住むお屋敷まで人力車に乗って共に移動しますが、ここのシーンの背景が「となりのトトロ」を彷彿させるような印象を持ちました。また、油絵のようでとても美しかったです。
お屋敷に着いた後も夏子に屋敷の中を案内されるのですが、その間眞人が一言も言葉を発していないのが気になりました。
コミュニケーションは全てお辞儀などの動作で済ませている感じでした。
この間少なくとも10分以上はあったと思います。
眞人が自分の部屋に案内されて夏子と別れたあと、ベッドの上で寝ている時に母の夢を見てそこで「お母さん・・・」と寝言っぽく呟いたのが疎開シーン後の眞人の初のセリフだったと思います。
無言の10分+「お母さん・・・」というセリフで母を失った悲しみを描写したのかなと思いました。
・石で自分を傷つける眞人
疎開先の学校に転校してきた眞人でしたが、よそ者を排他的に扱う田舎あるある的な感じで同級生からは歓迎されていないようでして、初日から取っ組み合いの喧嘩になります。
その後一人になった眞人は石ころで、結構な血が出る程度に自身の頭を傷つけます。
ここのシーンの眞人の意図がいまだにわからないです。
初めはわざと傷つけることで同級生を悪者に仕立て上げて大人たちに告げ口するのかと思ったのですが、父親に「誰にやられたんだ?」と聞かれても「転んだだけだよ」と答えていました。
この傷について物語終盤で眞人自身が「自分でつけた悪意の証」と言っていましたが、一体どのような悪意を意味するのか次に見るときは注目したいポイントです。
・アオサギについて
お屋敷の周りには一匹のアオサギが住み着いています。
映画のポスターにもアオサギが描かれていますが、ポスターのアオサギと劇中のアオサギは印象が全く違います。
ポスターのアオサギは目がキリッとしていて好印象ですが(何となく眞人に似ている印象もあります)、劇中のアオサギは声もガラガラで嘴に人間のような歯が生えていてグロテスクな描画がされています。実際中身も中年のおじさんのようでした・・・
ポスターのアオサギと劇中のアオサギの印象が違うことにも何かメッセージが込められているような気がするのですが、どうでしょうか。
アオサギは始めは眞人と敵対するような立ち位置ですが、最終的には「友達」になります。そこに何かヒントがあると思うのですが・・・
・『君たちはどう生きるか』
本作は小説『君たちはどう生きるか』を原作とした物語かと思っていましたが勘違いでした。
エンドロールでも原作「宮崎駿」となっていたので小説は原作ではないことがわかります。
しかし、劇中に小説『君たちはどう生きるか』は登場しておりこれは重要なファクターとなっているはずです。
眞人は自分の部屋でたまたま積み上げられた本の中に『君たちはどう生きるか』を見つけ、どうやらこれは母からの贈り物のようです。
(僕の記憶が正しければ)『君たちはどう生きるか』を見つける前に、眞人は森の中に消えていく夏子を目撃します。夏子はこの時、妊娠の影響で体調が悪く寝込んでいる状態で眞人もそれを知っている状態です。にも関わらず森に消えていく夏子に対して眞人は何もアクションを起こしません。普通は心配になって様子を見に行ったり、お手伝いさんに報告したりするのではないでしょうか? 眞人には誠実な少年のイメージを持っていたのでこのシーンは違和感を感じました。
その後、『君たちはどう生きるか』を読んで涙するシーンが描かれます。さらにその後に、夏子が消えたことに気づいたお手伝いさんたちが夏子を探すシーンが描写され、眞人も一緒に夏子を探し始めます。
『君たちはどう生きるか』を読んだ後で眞人の夏子に対する思いに変化があったのは間違いないはずです。
元々眞人は夏子を新しいお母さんとして受け入れられていなかったが、『君たちはどう生きるか』を読んで受け入れる決意をしたのでしょうか? この辺りもまだ理解が浅いので次見る時は注意深く見ようと思います。
・幻想の世界
夏子を探す眞人でしたが、アオサギに誘われて「下の世界」へと入り込んでいきます。アオサギが言うにはどうやら夏子もその世界にいるようです。ここで物語は一気にファンタジーの世界になります。
ここで登場するものの多くはメタファー的なものであり、この映画が難解である所以だと思っています。
それぞれ何のメタファーなのかを考えることが物語を理解することの鍵であり、この映画の楽しみ方なのではないかと思っています。
・ペリカン
ペリカンは眞人が「下の世界」で最初に出会う生き物です。
いつまにか眞人の後ろについてきて、急に眞人を襲うのですが(理由は不明ですが)眞人はアオサギの羽を所持していため一難を逃れます。
その後、ペリカンは人間の命の素である「ワタワタ」を捕食する存在として再登場します。
眞人がなぜワタワタを捕食するのかと尋ねると、ペリカンは「他に食べるものがないから仕方なく食べている」と答えます。同時にこの時に「この世界は地獄だ」と言っていました。
うーん、正直ペリカンの存在が一番謎です。見当がつきません。
「ワタワタ」の捕食者として悪役のようにも見えましたが、「ワタワタ」を捕食する理由を聞いた後、眞人は死んだペリカンを弔ってあげたり、「下の世界」崩壊後に現実世界にペリカンが逃げてこれたペリカンを見て眞人が「無事だったんだ!」と喜ぶような発言などもあったので、悪としての存在ではないようです。ただ、これ以上のことは現時点ではわからないです。
・インコ
彼らは「大衆」のメタファーだと感じました。
インコは人間を捕食する存在として描画されます。そのため、劇中では眞人たちを捕まえようとします。
眞人という存在も宮崎駿、あるいはクリエイターのメタファーだと思っています。
人間(=眞人)を捕食するインコという構図は、「クリエイターへのリスペクトを忘れてその作品をエンタメとして消費する大衆」という構図になっていると感じました。
また、インコの王が物語の終盤に「積み木」を適当に組み立てるシーンも「クリエイターよりもセンスがあると勘違いしている大衆」を意味していると思いました。昨今のSNSやレビューサイトで誹謗中傷に近い批判をしているようなユーザへの皮肉ではないでしょうか。
ただ、上記の解釈だと「妊婦である夏子」は捕食しないのが不明です。「妊婦」あるいは「赤ちゃん」にも何かしらの意味があると思うのですが、わかりません・・・
・3種類の鳥
前述した通り劇中にはアオサギ、ペリカン、インコの3種類の鳥が登場します。
それぞれ現実世界と「下の世界」で姿が変わったり変わらなかったりするので、そこに何か意味があるのか気になったのでここにまとめたいと思います。
アオサギ:「下の世界」、現実の世界でも姿は変わらずどちらでも化け物ような姿をしている。ただし、アオサギの被り物を完全に被れば普通のアオサギの姿になれる。
ペリカン:「下の世界」、現実の世界でも普通のペリカンの姿をしている。
インコ:「下の世界」では化け物の姿だが、現実の世界では普通のインコの姿になる。
上記の違いが何を意味するか、もしくは特に意味はないのかわかりませんが・・・
でも何か意味はあるような気はしています。
・ヒミ様
若かりし頃の眞人の母、おそらく眞人と同い年ぐらいの姿でしょうか?
「下の世界」には様々な時代から入ってこれるようです。
火を操る能力を持っていて初登場時は捕食されるワタワタを守るためにペリカンを火で追い払いました。
この時にはワタワタを守るためとはいえ、一部のワタワタは巻き添えで焼け死ぬことになりました。
眞人の母も火事で死ぬ運命になり一種の「宿命」や「業」のようなものを感じました。(そういう話ではないのかもしれないですけど・・・)
・積み木、墓石
積み木は「映画」あるいは「創作物」のメタファー、墓石は「過去のジブリ作品」のメタファーだと思いました。
さらに「墓石で組みたれた積み木」は「君たちはどう生きるか」のメタファーではないでしょうか。
「君たちはどう生きるか」は過去のジブリ作品を彷彿させるシーンが多々ありました。
最初これはファンサービスだと思いましたが、「墓石で組みたれた積み木」=「君たちはどう生きるか」への伏線ではないかと思いました。
僕の勝手な印象ですが、ジブリの作品って「ラピュタ」とか「もののけ姫」「千と千尋」など一昔前のものが人気ですよね。
そうすると所謂「ジブリっぽい作品」というのも上記のようなものになってくると思いますし、「ジブリっぽい作品」を求めるファンも多いと思います。ここで「ファンが求める作品=昔のような作品」という構図が見えてきます。
一方で宮崎駿を始めとするクリエイター達は「昔のような作品」を作りたいと思っているのでしょうか? これも僕の勝手な印象ですがクリエイターというのは常に新しい物を作りたがる人たちだと思っています。一度「ラピュタ」を作ったらもう一度は作りたいとは思っていないでしょう。「クリエイターが作りたい作品=今までにはない作品」だと思っています。
そうすると、ファンとクリエイターのすれ違いというのが見えてきます。
宮崎駿はあえて昔のジブリを彷彿させる「ジブリっぽい作品」を作って、主人公に「それは悪意のあるものだ」と断罪させたのではないでしょうか。「墓石で組みたれた積み木」がインコの王の手によって破壊されるのも強烈な皮肉だと思いました。
・物語の終わり
「積み木=映画」だとしたら「積み木が崩壊した後の世界=映画のエンディング後の世界=現実の僕たちの世界」ではないかと思いました。
アオサギが「「下の世界」から戻ってくると「下の世界」のことは忘れてしまう」と言っていました。これは映画を見終わった後、その映画のことなんて忘れてしまう大量消費社会への皮肉ではないでしょうか。
しかし、眞人は「下の世界」の石を持ち帰ってきていたため、「下の世界」のことは忘れていませんでした。これは「君たちはどう生きるか」を見て何か感じることのあった人はこの映画のことを忘れないよね、というメッセージだと僕は思いました。
以上です。
だいぶ飛躍的な箇所もあると思いますが、自分でどう解釈するかというのがこの映画で一番大事なことだと思います。
とにかく面白い作品だったことは間違いありません!
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