1ヶ月ほど前に画像生成AIについてを書いたが、短時間でこの技術が進化していることを感じる。
改めて思ったことを書こうと思う。
(画像生成AIの進歩を見て僕が思ったことで合って、画像生成AIの賛否について帰結する文章ではありません。)
写真を含む、絵や音楽などの創作物の出来はざっくりいうと「スキル✖️センス」で決まると思っている。
スキルは経験や知識を積み重ねること、努力することで身につけられる要素が大きい。
しかしスキルを身につけるとなるとそれなりに時間を要するので、そこをカバーしてくれるのが「技術」の役割だろう。
例えば写真を例にしてみると、デジタルカメラ登場以前はフィルムカメラが使用されていたが、フィルムカメラは写真を撮る時点では写真の出来はわからない。
露光量は十分か、シャッタースピードや絞りは適切か、被写体にピントが合っているか、余計なものは映り込んでいないか、全てが現像して初めてわかる。
また、シャッターを切れる回数も限りがある。フィルムの所持数にもよるがせいぜい数十枚程度だろう。
現代を生きる僕には想像できないような不自由さであると思う。
デジタルカメラが登場するとこれらの不自由さは解消されただろう。
シャッターを切ればすぐに写真の出来がわかる。いや、ミラーレスならシャッターを切る前からファインダー越しにある程度の出来が分かってしまう。
写真の出来が気に入らなければ後からレタッチで写真の出来を良くすることも可能だ。
写真の保存枚数も数千を超えるので失敗を恐れることなく気軽に撮影ができる。
さらに言えばデジタルカメラのプログラムオートやスマートフォンで写真を撮れば、プログラムが自動的に「良い感じの写真」にしてくれる。
そうなってくると撮影者は写真の設定なんかはほとんど気にする必要がなくなってくる。
撮影者が考えることは、「何を撮るか」ということだけだ。
写真の設定などのあれこれがいわば「スキル」にあたるものだ。
そして「何を撮るか」というのが「センス」にあたるものだと思う。
全くのカメラ初心者が同じ被写体を一眼カメラとスマートフォンでそれぞれ撮ったら、間違いなくスマートフォンの方がいい写真になるだろう。
これは写真の設定である「スキル」の部分をスマートフォンという技術がカバーしてくれているからだ。
もちろんより良い写真を撮るためにはオートなプログラムばかりに頼っていられないし、自身のスキルを向上させることは不可欠である。
しかし、こういった技術がより多くの人の表現の幅を広めていることは間違いのないことだし、スキルが未熟な人でも表現をしやすくなるというのは健全なことのはずだ。
コメント